ヘミングウェイの『移動祝祭日』について

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。――

アーネスト・ヘミングウェイ 

高見浩 訳(新潮文庫

 

 

冒頭、こんなカッコいい文章から始まる物語は「移動祝祭日」(1964年出版)は、ヘミングウェイが若き日に過ごしたパリの日々を綴った作品だ。(※現在では第三者が加筆した・・・という話があるが。)

 

 

・・・それは、ともかく。

 

誰しも、何かしら冒頭の文に心当たりがある筈だ。

 

 

いや、誰しもパリで過ごした経験なんてない。それは百も承知だ。筆者が言いたいのは、むしろ『パリ』という単語以外だ。この『パリ』という地名を他の言葉に置き換えて欲しい。

 

もし幸運にも、若者の頃、『 』で暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、『 』はついてくる。『 』は移動祝祭日だからだ。――

 

 

人は、誰しも何かしら幸福を感じた時、その瞬間を以後の人生で何度も思い出すだろう。

老いてゆく人生の中で何度も、幸福な時間を噛みしめるように味わうのではないだろうか?

 

まさに、移動祝祭日を著したヘミングウェイ自身がそうだった。

若き日のヘミングウェイは、とにかく活動的な男で、米国で新聞記者をしていたかと思えば、当時、欧州で勃発した第一次世界大戦のイタリア戦線にまで赴く。

 

戦争が終われば、芸術の都として知られたパリのカフェで若き芸術家たちと日がな一日お喋りする生活。

 

その後、アフリカで動物を狩猟したり、大洋に出てカジキマグロも釣りに出かける。まさに活動的でワイルドな男だった。

 

ヘミングウェイは、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』など名作を次々と発表する。

 

彼の作品の特徴は、一言で言い表すと「ハードボイルド」であった。

ハードボイルドとは、一般的に「固ゆで」から転用された言葉で、とにかく感傷的な表現を極力省き、短い文章で的確に出来事を著述する手法だ。

 

それまでの英米文学は、装飾の多い華美な文章を用いた作品が溢れていた。・・・そこに、ハードボイルド小説が突然、殴り込みをかけてきたのだ。

 

まるで、鍛え抜かれた筋肉の様な文体、男たちの求道者的な自らを痛めつけるような男の美学を追求する内容に、すっかり人々は熱狂した。

 

新聞記者時代の経験から、「余計な文章を省き、事象を的確に表現する」手法は、まさに文学界においてコペルニクス的転回となった。

 

1954年にはノーベル文学賞も受賞しており、他人から見れば、順風満帆で栄光に包まれた人生のはずだった。

 

ーーしかし、1961年7月2日

 

ヘミングウェイは自宅で、散弾銃を用い自殺した。享年61歳。

 

晩年の彼は、航空機事故の影響などで、心身ともに病に罹り、若き日のような活発さを失った。

 

その晩年のヘミングウェイが、書き綴った作品こそ、「移動祝祭日」だった。

 

大作家として、世界的な名声を得た彼が心の中で常に思い出したのは、ノーベル賞受賞の瞬間ではなく、まだ名も無き青年の一人だった頃に過ごしたパリ時代であった。

 

昔の事を思い出し、懐かしく寂しい気持ちになる・・・それをフランス語ではノスタルジー(nostalgie)と言う。

 

日本語では、懐古、追憶など様々な言い方がある。

 

秋の長い夜、久々にヘミングウェイ作品を手に取ると、端々で感じられる「ノスタルジー」や「悲しみ」は日本人にとって非常に親和性があったのだろう。

 

死後半世紀以上を経た現在でも、ヘミングウェイ作品は新たな翻訳が出版されている。

 

 

令和4年9月10日の中秋の名月は、全国各地でも美しい姿が観測された。きっと、数百年前の歌人俳人たちも、秋の月を前に一つ詠みたくなったのだろう。

 

遥か昔に思いを馳せるもよし、自分の直近の事を思い出すもよし。

 

そんな気持ちにさせてくれた、ヘミングウェイの「移動祝祭日」をぜひご一読下されば筆者は嬉しい限りである。

 

 

アダルトコンテンツの作者と作品は別なのか問題について考える

※先に言いますが、かなり下品で筆者の良識を疑われそうな内容になります。かなり、気持ちの悪い内容ですので、それでも良い方はお読みください。

 

 

むかし、私の友人がコミケに参加した際に漏らした言葉を今でもよく覚えている。

『あ~ぁ、あのエロ漫画の作者さんの顔見ちゃったわー』

彼が何を残念がっているのか理解できなかった。だから、

「なんか問題でもあるの?」

堪らず訊いた。

彼は深刻そうな顔で頷いた。

『だって、作者の顔知ったら、もう使えないだろ?』

深夜のファミレスで眠気に誘われていた私は、思わず目が覚めた。

友人の言葉は、どこまでも実感が籠っていた。なるほど、確かに彼の言葉には一理ある。いや、分かり過ぎるほど理解できる。

 

むしろ、私の今まで抱えてきたモヤモヤを明解に言語化してくれた様な気すらした。・・・普段はアホの分際で彼は、エロの方面に関しては賢人であったらしい。

 

この一件以来、私もエロ漫画などを読む際には彼の「作者の顔が浮かぶ」という一言が脳裏に過るようになった。もし、「汚いおっさんが描いてたらどうしよう」という危惧が日に日に膨らんでいった。

 

・・・しかし、である。

 

私は気が付いてしまった。否、今まで見てこなかった現実に向き合う時が来たのだと悟った。

 

「作者の顔を知ったら、そのエロ漫画を使えなくなった」のは虚構である、と。

 

よく、考えてみて欲しい。

 

なぜ、美少女を描く人間が「汚いおっさん」だと駄目なのだろう?

 

その美少女の背景に「汚いおっさん」を透過して読んでしまうから? 自分が自慰行為をしている相手が実は、汚いおっさんに行きつくから?

それらは、全て欺瞞である。

 

ならば、聞こう。

 

世の中の実在する美少女、美女の生物学的遺伝子の半分は「おっさん(父親)」なのである。もう半分は「おばさん(母親)」なのだ。

つまり、世の中で性交渉を持つ際、いちいち「あ、この女性の背景には父親と母親がいるな」と思って性交渉するだろうか?

キスするとき「今、この女性の唾液を通しておっさんの唾液とおばさんの唾液を半分ずつ飲んでいるんだ」と自覚しながら性交渉するだろうか?

 

性交渉中に自分と相手の両親の写真を見ながら、行為に及ぶだろうか?

 

結論から言おう。そんな馬鹿なことをする人間は皆無だ。

 

むしろ、その事実を自覚しながら行為に及ぶ人間がいるならば聞きたいくらいだ。

 

エロ漫画を使い、自慰行為に及ぶ際にはむしろ唾液や体液、粘膜による接触がないため、現実の性交渉よりも、背景に居る「両親想像問題」から切り離されるだろう。

 

純粋な絵(あるいは記号)による快楽を得る際、清潔な状態による性欲の解消に繋がるため、大変効率がいい。

 

また、人間とは面白いもので、結婚するさいにはお互いの両親に挨拶をする風習を持つ。

 

それは、あたかもPL法(製造物責任法)のようなものである。

 

もし、エロ漫画で作者の顔を見ただけで、作品が使えなくなるならば、結婚の挨拶はどうなる?

 

相手の両親の顔をわざわざ観に行って「あ、俺はこのおっさんと二分の一性交渉をしたんだ」と思わなければいけないのだろうか?

 

しかし、世の中の人々はこういう考えに囚われず、遺伝子の継承として性交渉におよぶ。なんの疑問もなく、だ。

 

世の中の多くの人が、遺伝子の事実に目を逸らしながら、性交渉に及んでいるのだ。だから、キモヲタ童貞であるエロ漫画愛好家は安心して、オカズとして今後も使っていい。

 

・・・以上だけ書けば、単なる猥談なため、少々恰好つけさせて頂きたい。

 

以前、タイトルは失念したが実存主義の小説に、こんな一節の会話があった。

 

「あなたは私を愛してる?」

「愛してるよ」

「そう。でもあなたは私の腸までは愛してくれないのでしょう?」

 

確か、こんな会話だったと思う。

つまり、どんな美女であろうとも愛しているのは、顔面か体・・・分かりやすい表面部分の肉体を愛するのであって、彼女を構成する内臓までは愛してくれないのだろう。そういう意味だ。

 

確かにそうだ。普通の人間であれば、内臓まで愛する奴の方がヤバいのだ。でも、相手の「全てを愛する」ならば、やはり内臓まで好きにならないと嘘になる・・・

など、意味不明なジレンマに陥るため、あまり深く考えるのはヤメた。

 

つまり、こんなクソみたいな文章読んでる暇あるなら早く寝るんだ。以上だぜ。

 

※筆者は酔っている為、これ以上難しいことは分かりません。あしからず。

 

 

 

 

考えたこと1

最近、「砂の惑星」(著:フランク・ハーバート)が映画化された。SF作品の映像化と言えば、ついこの間、「夏への扉」(著:ロバート・A・ハインライン)も邦画で全国の映画館にて公開された。

 

また、同様に現在(2021年秋)、「日本沈没」(著:小松左京)もドラマ化されている。

 

近年の潮流としてSF作品が注目を浴びており、俄かに書店や図書館でもSF作品に触れる機会が増えたと思う。

 

――そのSF作品のブームの一端を担ったのは、間違いなく「三体」(著:劉慈欣)というゴリゴリのハードSFが国外の作品による貢献があっただろう。

 

しかも、これまでSF作品とは無縁だと思っていた中国が発祥の作品である。

 

かくいう私は、最近までSFというジャンルは敷居が高く、手を出さなかった。どこか他人事のように眺めていた側の人間である。

 

少し前まではマイナージャンルだったと思っていたので、このブームに乗っかって面白そうなSF作品を読んでみたいなー、と最近になって手を出し始めた。

なにせ、毎月新書が置かれる棚には、着実にSF作品も並び始めているのだから。今、この時期をチャンスととらえて新分野開拓へと踏み出した。

 

ともかく、書店で立ち読みしていた私は、ふと、何となく、ある書物を思い出した。

『予言集』(著:ミシェル・ノストラダムス)である。

 

中世のフランスに活躍(?)した、ミシェル・ノストラダムス( 1503年 - 1566年)が記す『予言集』から抜粋した「ノストラダムスの大予言」は、1980年代後半~90年代の日本で広く終末ブームを巻き起こした。・・・・・・それが良かったのか悪かったのかは、結論を置いてく。

 

・・・・・・ともかく、SFは一種の予言の書だと思う。

 

 

具体的にどんな技術が~、どんな部分が社会を~、と難しい事はあいにく指摘できる程知識がないため答えられない。

 

きっと、最近寒さが増したから余計な考えが浮かぶのだと思うようにして、しょうもない妄想は「この文面」で記すことで忘れることにした。

 

私は、図書館も好きだが、やはり所有欲という欲求を満たすためだけに、紙の本を買ってしまう。おかげで、読まないで積んだ本が部屋を埋め尽くす。例えば、これが友人に自慢できるような人間であれば良いのだが、あいにく、近くに友人が居ない。

 

仕方ないと思う一方、どうやってこの本を処分しようかな、と考えてしまう。・・・・・・ちなみに、殆どが中古で買ったので、お財布事情の寒々しい私からすれば、なけなしの趣味である。

 

いつかは、普通に新刊を書店で沢山買えるようになりたいなー、と思う今日この頃である。