アダルトコンテンツの作者と作品は別なのか問題について考える

※先に言いますが、かなり下品で筆者の良識を疑われそうな内容になります。かなり、気持ちの悪い内容ですので、それでも良い方はお読みください。

 

 

むかし、私の友人がコミケに参加した際に漏らした言葉を今でもよく覚えている。

『あ~ぁ、あのエロ漫画の作者さんの顔見ちゃったわー』

彼が何を残念がっているのか理解できなかった。だから、

「なんか問題でもあるの?」

堪らず訊いた。

彼は深刻そうな顔で頷いた。

『だって、作者の顔知ったら、もう使えないだろ?』

深夜のファミレスで眠気に誘われていた私は、思わず目が覚めた。

友人の言葉は、どこまでも実感が籠っていた。なるほど、確かに彼の言葉には一理ある。いや、分かり過ぎるほど理解できる。

 

むしろ、私の今まで抱えてきたモヤモヤを明解に言語化してくれた様な気すらした。・・・普段はアホの分際で彼は、エロの方面に関しては賢人であったらしい。

 

この一件以来、私もエロ漫画などを読む際には彼の「作者の顔が浮かぶ」という一言が脳裏に過るようになった。もし、「汚いおっさんが描いてたらどうしよう」という危惧が日に日に膨らんでいった。

 

・・・しかし、である。

 

私は気が付いてしまった。否、今まで見てこなかった現実に向き合う時が来たのだと悟った。

 

「作者の顔を知ったら、そのエロ漫画を使えなくなった」のは虚構である、と。

 

よく、考えてみて欲しい。

 

なぜ、美少女を描く人間が「汚いおっさん」だと駄目なのだろう?

 

その美少女の背景に「汚いおっさん」を透過して読んでしまうから? 自分が自慰行為をしている相手が実は、汚いおっさんに行きつくから?

それらは、全て欺瞞である。

 

ならば、聞こう。

 

世の中の実在する美少女、美女の生物学的遺伝子の半分は「おっさん(父親)」なのである。もう半分は「おばさん(母親)」なのだ。

つまり、世の中で性交渉を持つ際、いちいち「あ、この女性の背景には父親と母親がいるな」と思って性交渉するだろうか?

キスするとき「今、この女性の唾液を通しておっさんの唾液とおばさんの唾液を半分ずつ飲んでいるんだ」と自覚しながら性交渉するだろうか?

 

性交渉中に自分と相手の両親の写真を見ながら、行為に及ぶだろうか?

 

結論から言おう。そんな馬鹿なことをする人間は皆無だ。

 

むしろ、その事実を自覚しながら行為に及ぶ人間がいるならば聞きたいくらいだ。

 

エロ漫画を使い、自慰行為に及ぶ際にはむしろ唾液や体液、粘膜による接触がないため、現実の性交渉よりも、背景に居る「両親想像問題」から切り離されるだろう。

 

純粋な絵(あるいは記号)による快楽を得る際、清潔な状態による性欲の解消に繋がるため、大変効率がいい。

 

また、人間とは面白いもので、結婚するさいにはお互いの両親に挨拶をする風習を持つ。

 

それは、あたかもPL法(製造物責任法)のようなものである。

 

もし、エロ漫画で作者の顔を見ただけで、作品が使えなくなるならば、結婚の挨拶はどうなる?

 

相手の両親の顔をわざわざ観に行って「あ、俺はこのおっさんと二分の一性交渉をしたんだ」と思わなければいけないのだろうか?

 

しかし、世の中の人々はこういう考えに囚われず、遺伝子の継承として性交渉におよぶ。なんの疑問もなく、だ。

 

世の中の多くの人が、遺伝子の事実に目を逸らしながら、性交渉に及んでいるのだ。だから、キモヲタ童貞であるエロ漫画愛好家は安心して、オカズとして今後も使っていい。

 

・・・以上だけ書けば、単なる猥談なため、少々恰好つけさせて頂きたい。

 

以前、タイトルは失念したが実存主義の小説に、こんな一節の会話があった。

 

「あなたは私を愛してる?」

「愛してるよ」

「そう。でもあなたは私の腸までは愛してくれないのでしょう?」

 

確か、こんな会話だったと思う。

つまり、どんな美女であろうとも愛しているのは、顔面か体・・・分かりやすい表面部分の肉体を愛するのであって、彼女を構成する内臓までは愛してくれないのだろう。そういう意味だ。

 

確かにそうだ。普通の人間であれば、内臓まで愛する奴の方がヤバいのだ。でも、相手の「全てを愛する」ならば、やはり内臓まで好きにならないと嘘になる・・・

など、意味不明なジレンマに陥るため、あまり深く考えるのはヤメた。

 

つまり、こんなクソみたいな文章読んでる暇あるなら早く寝るんだ。以上だぜ。

 

※筆者は酔っている為、これ以上難しいことは分かりません。あしからず。